001総教C030705H28最終稿(西田)
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第1節 遊び=学びの指導と評価 小学校 体育科教育 5 (3) ヨハン・ホイジンガ 里見元一郎訳『ホモ・ルーデンス』河出書房新社 1989.11 p.23 (4) 前掲(3)pp..21~27 (5) ロジェ・カイヨワ 多田道太郎,塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社 1990.4 p.34 (6) 前掲(5)p.40 (7) 立石正,新開谷央,菊幸一,松田恵示他『小学校体育科授業研究第三版』教育出版 p.26 (8) 前掲(7)p.26 (9) 前掲(7)p.26 (10) 前掲(7)p.26 (11) 佐伯年詩雄『これからの体育を学ぶ人のために』世界思想社 2006.6 p.165 (12) 高橋健夫「運動の特性を問い直す」『体育科教育 第60巻第10号』大修館書店 2012.10 p.12 (13) 渡部信一「高度情報化時代における教育再考-認知科学における学び論からのアプローチ-」『教育学研究第77巻 第4号』一般社団法人日本教育学会 2010.12 pp..358~367 (14) 佐伯胖『わかり方の探究 思考と行動の原点』小学館 2004.8 p48 もに学習させる以上,子どもの学習を評価する必要があり,体育も例外ではない。それでは,遊び=学びの指導と評価はどのように進めていけばよいのだろうか。 本章では,遊び=学びの立場での指導と評価の在り方を提示しながら,今年度の研究の方向性を示す。また,運動遊びを身近にするための計画について提案する。 (1)発達段階を踏まえた指導 現行の小学校体育科学習指導要領には,「生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てる」と明記され,豊かなスポーツライフの実現のための基礎を小学校段階で育てることを目標としている。また,指導内容の明確化や内容の系統性が重視されている。次頁図2-1は,文部科学白書の「体育の分野 指導内容の体系化」(15)を基にして作成した発達段階を踏まえた指導内容の体系化を示したものである。 第2章 運動遊びを楽しむ子を目指して 9 (2)遊び=学び 本章第一節でも述べたが,遊びの第一条件は,「自由な活動」であり,子どもたちが強要されたと感じると,もはや遊びではない。授業というある一定強制された枠組みの中で,いかに子どもの思いに寄り添うことができるのかが重要なのである。 佐伯は,遊びと学びの関係について,「遊びと学びは渾然一体のもの」(14)と述べている。佐伯は,子どもの世界では,遊ぶことと学ぶことはほとんど区別がないとし,遊ぶことはただ楽しむことだけを求めており,そこで何かを学ぼうなどということはないとしている。夢中に遊ぶ中で,自然と「できるようになる」ことが増えていき,それを学びととらえることができる。一方,大人の世界では,学ぶときには遊んでなどいられず,遊びを我慢して,努力して,一歩一歩何らかの知識や技能を向上させていく。遊びは,ただ楽しむことだけのために行うこととして,学びと分離されている。しかし,大人の世界でも,遊びと学びが区別できない状況もある。科学者が研究に没頭しているときや画家が夢中で絵を描いているようなときなどである。結果として,自分の知識や技能が向上し,物事の探求が面白く,夢中になってやめられない状況で,「これはどういうことなのだろう」「どうやればうまくいのだろう」ということを考えているのである。 このように考えると,「遊ぶこと」と「学ぶこと」は,渾然一体となったものであり,両者を分けてしまうのは,本質からいうと間違いである。特に,スポーツの世界では,自分の好きなことに好きなだけ時間をかけ,「もっとできるようになりたい」「なんとかうまくなりたい」と夢中になって練習に励んだ結果,素晴らしい選手として脚光を浴びることがよくある。しかし,学校教育では,勉強=「学び」-「遊び」としてとらえられ,学校では,将来,必要となるであろう知識や技能といった能力を高めるために,遊んでばかりはいられないという状況となっているのではないだろうか。 筆者は,学校体育=「学び」-「遊び」としてではなく,学校体育=「遊び」=「学び」としてとらえることができれば,子どもたちが主体的に,自分の個性を伸長していきながら,学(遊)んでいくに違いないと考えている。 遊び=学びだととらえると,能力主義ではなく,ただ遊べばよいということになるが,学校で子ど

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