ものとしてとらえられがちであった。いわゆる「下す 評価」である。「下す評価」である限り,それは数値 による評定と同じ発想であり,身に付いたかどうかを 判定するという教師中心の評価に陥ってしまう。これ では,子どもの成長を見守る評価になることはあり得 ない。 そうではなく,道徳教育や道徳の時間における評価 は,あくまでも子どもを理解する営みとしてとらえた い。子どもの思いや考えをしっかりと理解しつつ,子 ども自身が見方や感じ方,考え方をより一層広げたり 深めたりできるよう導くのである。(8) まず筆者は,第一次の判断者を教師という外部の指導者ではなく,学習の当事者である生徒自身に設定するべきだと考えた。なぜなら,道徳的理解がその生徒自身の内面的理解を問うものであるならば,その評価の出発点は,生徒自身の判断によるべきと捉えたからである。判断者を生徒にすることは,「新学習指導要領一部改正」の中で道徳の評価が「個人内の成長の過程を重視すべき」「個人内評価として行う」(9)と記述されたことからも有効であると考えられる。つまり,他者との比較や相対化によって,教師が生徒の道徳性を序列や優劣の判断へつなげる評価にするのではなく,生徒一人一人が,明確な観点を基に自らの道徳的学びの深化について振り返り,個々の道徳的成長を把握・促進できるよう,自己判断するべきだと考えたからだ。 生徒の学習状況の正確な把握と評価をなくして,効果的な指導の検証と改善は見込めず,明確な観点やねらいなくして,適切な評価もないと考えたからだ。前ページの文部科学省における平成24年度の調査でも,最も多くの教師が道徳において課題であると感じていたのは,「指導の効果を把握することが困難である」(7)という項目であった。効果を把握できていなければ,当然その先にある評価にもたどり着くことができない。だが裏を返せば,そのような評価の課題を克服することで,「困り」が解消され,道徳の時間の円滑な運営が可能になるということでもあった。 (2) 自己評価の意義 では「特別の教科」である道徳はどのような評価を目指すべきなのか。そこで筆者は,島の言う従前の「下す評価」からの脱却が必要と考える。島の考えを以下の枠内に示す。 従前の「評価」は,対象とするものの値打ちを計る図1-3 「価値理解」初期段階での外部からの評価の構造 また逆に,この時期の児童はまだ自己を客観化することや自己の思考を言語化して認識する過程であり,教師の援助なしに自己評価することには困難が生じる。よってこの時期の道徳の評価としては教師主導の外部からの見取り評価が適していると考えられる。 中学校 道徳教育 3 ただし,この適用については,小中すべてに該当するとはいえないので,注意が必要である。小中一貫教育が推進されている中で,小学校と中学校を同じ形式で評価するべきと考える場合もあるかもしれないが,それは適切ではない。なぜなら,発達段階に応じて道徳の目指す学びは変容するからである。 たとえば,幼少期の児童は「道徳的価値理解」の初期段階である。まだ未分化な善悪の判断の整理や,ねらいとなっている「正直」や「親切」のような道徳的価値に対して,素直でのびやかな心で正しい行動を選択できるように,教材には状況を単純化させているものが用いられる。いわゆる道徳的な思考を支える基盤や素地作りの段階であり,この時期は児童に基礎的な考え方を理解させることに軸足をおく時期ともいえる。 この場合,道徳の時間の評価としては,「どの程度,ねらいとしている道徳的価値を理解できたか」を見取り,評価することになる。そしてその方法についても,この段階の児童にとっては「どうすればいいかわかった(道徳的判断力)」と「すごいと思った(道徳的心情)」と「自分もそうしたい(道徳的実践意欲と態度)」の三つの距離はとても近く,思考化と行動化が直結しているために,外部からの言動の観察によって,その道徳的価値理解の度合いは十分評価できると思われる。 上記の初期段階での評価についてまとめて図示したものが以下の図1-3となる。 しかしながら,発達段階が進むにつれ,児童生徒の道徳的認識も基礎の完成,応用に移る。中学年の時期では示された道徳教材の状況に対して,どうすればいいかを判断できるようになる。それとともに,物語とは違い,現実が複雑な様相をし
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