001総教C030705H27最終稿(中山)
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中学校 道徳教育 30 (32)前掲(5) p.169 らこそ,良質な学びや評価を提供できなければ,一気に道徳教育が衰退することもありうる。今回の生徒による道徳の授業の自己評価を提案したのは,まさにその状況への危惧も含んでいる。 自己評価の活用によって,評価作業の効率化も図るが,それはその効果によって,生徒の心に響いた学びを認め,自尊感情を高めるためのひと手間をかけてもらうためである。最後の評価のところで立ち止まり,生徒の受け止めた学びについて見つめ直し,どのように生徒の心を拾い上げればよいかを逡巡し,評価を行う。その最低限の負荷があるからこそ,生徒の心に届く評価が行えると考える。また,教師が道徳の意義を見つめ直す機会になると確信する。 本研究では,「生徒による自己評価」の,これから始まる道徳の教科化との関連を考え,実践研究を行ってきた。「評価」という言葉は,従来の教師の中に「判定」と同義語であるととらえられている。そのために,「生徒に優劣をつけるのが評価」というイメージがあり,道徳教育は評価になじまないという声もある。しかし,評価には,「ある事物や人物について,その意義・価値を認めること」という意味があり,その本来の意味合いで,生徒の意義・価値を見出すことが道徳の時間でいう「評価」なのだと研究を通して改めて認識した。 その意味合いでは,道徳の時間における最終の「文言による評価」が適切に,生徒の良さに意義・価値を見出す評価になるようにこの研究をつなげることが重要と感じている。 最後に京都市立旭丘中学校及び京都市立伏見中学校には,本研究の主旨を理解していただき,実践授業やアンケート調査に研究協力をしていただいた。ここでの実践を分析することにより,生徒たちの意識の実態や教師との相違が明確となり,研究を進める核となった。両校の研究協力員,そして学校長をはじめとする教職員の皆様,道徳の時間に生き生きと取り組む姿を見せてくれた生徒たちに,心より感謝の意を表したい。また,これから始まる道徳の教科化の今後の躍進と,それにより多くの生徒の心が豊かに満たされることを心から願いたい。 おわりに 対する「生徒の学習状況の評価」についても,毎回の生徒の学びの尺度の把握,生徒の記述から「文言による評価」につなげる試案も作成できた。 しかしながら,成果を踏まえた上で,いくつかの課題も見えてきた。まずはR-PDCAのうちのR=リサーチ(事前調査)をどのように今回の自己評価システムに組み込むかの提案である。それぞれの授業後の道徳的学びの尺度化は行えたが,それが学年当初,どこまで到達していたのか,道徳の授業を終えた後,数カ月がたった後の長期スパンでいえば,どのようにその変化が定着したのかなど,きちんと調査した結果があれば,より評価をする際に,高度な分析と良質な評価を提供できるのではないかと考える。 また,今回の自己評価の尺度化は,その判断基準設定が生徒に委ねられているが,今後は大まかなルーブリック評価について示すべき指標の作成について,検討とさらなる提案が必要だと感じた。どこまでの響きが「とても」なのか「まったく」なのか,この物差しの目盛り自体がどの程度を意図しているのかは,道徳の授業を導く教師側が示すべきだと思われる。 更に,出された文言による評価に対する生徒の満足度についても調査・検証を行いたい。教師も生徒も満足でき,その後の様々な学びに有意義な効果をもたらす評価。生徒による自己評価はそのような評価を目指しているからである。 道徳の教科化が決まり,道徳の評価をどう出すかについては様々な提案がなされてくるだろう。今まで取り組まれていなかったことが新たに加わるという意味では,道徳の評価が入ることは,教師の負担が増えるということでもある。その際にこれ以上の教師への負担の軽減を考え,作業の効率化を考慮することは重要である。だがその一方,その出された評価が,教師と生徒の両方にとって,意義あるものでなければならない。道徳が心の教育である以上,その評価も生徒の心に響く評価を目指すべきであろう。 評価とはその教科が目指す最終到達点を示す道標である。効率化のみを求め,その道標に心が込められない評価を設計することは,その教科自体を死なせてしまうことになる。道徳の教科化という風を追い風にして,大きく日本の教育の根幹として根付かせるためには,良質で使いやすく,それでいて教師と生徒の心をつなぎ,豊かな心の教育に寄与する評価が必要である。教科化をきっかけに様々な研究や研修が進められるこの時期だか

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