分に理解できていなかったりした場合,学級担任の発言は,児童と児童,児童と学級集団をつなぐ働きをもつとは限らない。「この児童には,厳しく言わなければ伝わらない」「この児童には,厳しく言うと伝わらない」など,一人一人の児童理解に基づく発言が,児童の間に不公平感を生んだり,友だちに対する偏った見方をすりこんでしまったりする可能性もある。それゆえに,「個としての児童理解」とともに,「集団の一員としての児童理解」という二つの視点を常に意識することが必要であり,学級担任と児童とをつなぐだけでなく,児童と児童,児童と学級をつなぐ発言となって,児童の人権感覚の育成に結び付いていくと考える。 また,「学級の集団理解」も重要である。学級の雰囲気や在り様によって,学級担任の発言に対する児童の受け止め方が変わってくる。学級担任による注意を,自分たちへのアドバイスとしてプラスに受け止める場合もあれば,非難されたと受け止め,その意図が正しく伝わらない場合もある。 学級担任の発言には,教師である自分と児童をつなぐというだけでなく,児童と児童,児童と学級集団をつなぐ働きがある。学級担任がこのことを認識することが「人権の視点に立つ」ということだと考える。そして,自らの発言によって,児童と教師,児童と児童,そして,児童と学級集団をつなぐことこそが,“人権としての教育”“人権を通しての教育”の一つの姿であり,児童が自尊感情を高め,自己実現に向けての意欲をもって学校生活を送ること,他者とのよりよい人間関係を築く術を身に付け,共に生きているという実感をもって学校生活を送ることにつながる人権教育の一つなのだ。 本研究は,「授業中の学級担任の発言には,児童の人権感覚を高めるものがあるだろう」という仮説のもとに,調査を進めてきた。この仮説は決して斬新なものではない。全ての教師が当たり前のこととして,日々の学級経営を行っているだろう。しかし,社会の価値観が多様化する中で,教師に求められるものも多様化している。その多忙感ゆえに,配慮が十分になされずに言葉を発してしまったり,自分の発した言葉が児童にどのように伝わっているかを確認しないまま過ごしてしまったりはしていないだろうか。そのことが児童に授業などで取り組む人権学習の内容と,学校,学級という自分たちの生活環境との間に違いを感じさせ,「学習したことと自分たちの生活は別のもの」という意識となって,結果的に,知的理解と人権教育 30 日常の行動が結び付かないという児童の姿を生んでいるのかもしれない。 現在,学校現場は大量退職,大量採用の時代を迎え,本市においても,若手教員の占める割合が高まっている。このような現状の中で,当たり前だと思われていることが本当にできているかを点検すること,当たり前だと思っていることの中に見落としている課題はないかを考えることこそ,学校現場における人権教育の在り方を見直す第一歩になるのではないかと考える。 教師自身の人権感覚を磨くためにも,互いの授業を観察し合い,展開や発問などの授業の内容だけでなく,それぞれの発言そのものを人権の視点で分析し合うような研修を行うことも,人権教育の在り方を見直し,その充実に向けた取組として有効ではないかと考える。 いじめや不登校など,現在も児童生徒の人権に関わる問題は後を絶たない。平成26年度のいじめ認知件数は,18万8057件に上っている。 児童生徒の人権に関わる問題には特効薬はないかもしれない。しかし,調査研究を進める中で,教師が高い人権感覚をもち,児童生徒の人権を大切にした日々の取組を重ねることで,児童生徒に,それらの解決につながる人権尊重の精神を涵養できると確信した。 この他にも,今,早急に対策が求められている課題として,子どもの貧困問題がある。これも,学校現場だけで解決できる問題ではないが,子どもの貧困が,虐待や不登校,非行など様々な問題につながるおそれがあるとされている以上,学校現場でも具体的な対策を早急に考え,取り組まなければならない問題である。 京都市の教育の理念は,一人一人の児童生徒を徹底的に大切にすることである。 子どもたちが,自らの未来に夢と希望をもち,誰もが大切にされる平和で自由な社会の実現に向けた,強く,しなやかな心と力を身に付けられる人権教育の在り方を今後も考えていきたい。 最後に,本研究の趣旨を理解し,協力してくださった京都市立南太秦小学校と京都市立東山泉小中学校の校長先生をはじめ,自らの学級での姿を調査対象として協力してくださった研究協力員の先生方,いつも温かく迎えてくださった両小学校の教職員の皆様に心から感謝の意を表したい。 おわりに
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