第1節 本研究での「学びへ向かう力」 「いかに言い訳しても、子どもがだめなのは、教師の不始末によるのです。」(1) これは,大村はまが著書の中で述べている言葉である。大村は,子どもは真剣に純粋に知恵を求め,伸びようと願っているのに,教師が適切な教材を与えられず,間違ったやり方をしていたからだめだったと気付いたこと,その気付きを得た後は,常に冒頭の言葉を言い聞かせてきたことを述べている。生徒のやる気がないのではなく,生徒がやりたいと思えるような授業ができていないということ,生徒が学ぼうと思える授業にするために日々努力しなければならないということをあらためて感じさせられる言葉である。 本研究は,「学びへ向かう力」をテーマとしている。全ての生徒が国語が大好きで,常にやる気に満ち溢れていれば嬉しいことだが,現実はそうではない。面倒くさいと前向きに学習に取り組めない生徒,どうせできないと半ばあきらめている生徒,落ち着いて授業を受けられない生徒,授業自体に参加したがらない生徒。実際には,そのような生徒がおり,筆者自身もそういった生徒と幾度と向き合ってきた。しかし,初めからどうせできないとあきらめている生徒がいるだろうか。心から学ぶのは嫌だと思っている生徒がいるだろうか。大村が「子供は真剣に純粋に知恵を求め,伸びようと願っている」と言っているように,できることなら分かりたい,新しいことを学びたいと思っている。その思いがないように見えるのは,そう思わせてしまっている指導者側に原因があるのではないだろうか。生徒が潜在的にもっている「伸びたい」という願いに指導者が応えられるかどうかで,学ぶことが楽しい,もっと学びたいという気持ちをもてるかどうかも変わってくるだろう。 また,国語の授業は言葉を学ぶ時間でもある。光村図書中学2年生国語の教科書では『言葉の力』という教材が扱われている(2)。『言葉の力』の冒頭は以下のような文章で始まる。 人はよく美しい言葉,正しい言葉について語る。しかし,私たちが用いる言葉のどれをとってみても,単独にそれだけで美しいと決まっている言葉,正しいと決まっている言葉はない。(中略)言葉というものの本質が,口先だけのもの,語彙だけのものではなくて,それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところがあるからである。 (1) 大村はま『灯し続けることば』小学館 2004.7 pp..66-70 (2) 大岡信「言葉の力」『国語2』光村図書 2015.3 p70 (3)『古今和歌集 日本古典文学大系8』岩波書店 1958.3 p93 第1章 「学びへ向かう力」とは やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。 中学校 国語教育 1 国語の授業の中で,生徒が言葉を通じて様々なことを考え,一人一人が自然と自分なりの言葉を獲得していくことで,言葉の価値を実感していくことができるのではないだろうか。そして,日本という国での言葉を考えたとき,一つ一つのささやかな言葉に価値を見出してきたのではないか。短歌や俳句等,非常に短い詩が脈々と受け継がれてきているのも,日本人の言葉に対する価値観があってこそのものだと考える。『古今和歌集』の序文は以下のように始まる(3)。 「人の心がまずあって,その心を言葉として表現したものである」「生きている人は心で思うことを言葉に託している」と紀貫之は述べている。自分の思いを言葉に託すこと,自分の考えを言葉で届けること。その喜びを国語という限られた時間の中で知ってほしいと思う。その喜びを感じることができれば,国語を学ぶ意義も自然と生徒の中に生まれる。そして,そういった喜びを感じるためには,一生懸命自分なりに考えて,表現できたという経験が必要だろう。 生徒が自ら学びたいと思えるような授業を目指すことは,今も昔も変わらない普遍的なことである。新学習指導要領が公示され,育成すべき資質・能力や「主体的・対話的で深い学び」などの言葉が強調されている一方で,基本的な考え方はこれまでと変わらない。過渡期である今こそ,あらためて生徒たちの伸びたいという思いを支えられる授業・評価の在り方について考えていきたい。 (1)「学びへ向かう力」と「学びに向かう力」 次ページ図1-1は平成28年度中央教育審議会答申(以下答申)補足資料の中で示さている育成を目指す資質・能力の三つの柱である(4)。三つの柱と「学びへ向かう力」の関係について述べていく。 はじめに
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